ダグラスC−47


ダグラスC−47
ダグラスC−47スカイトレイン、またはダコタはダグラスDC−3から開発された軍用輸送機で、大戦中に連
合軍により広範に第一線で使用され、今日でも少数の機体が飛行している。
ダグラスC−47スカイトレインとDC−3の違いは大型の貨物ドアーと強化された床面で、第二次大戦中に連
合国の多くの国でダグラスC−47や改修されたDC−3が兵士の輸送や、貨物、あるいは傷病兵の輸送に従事
した。
ダグラス社は1940年の後半に航空機の耐空性審査基準の変更に対応し、ダグラスDC−3の離陸性能および
片発性能を改善し、高速の新型モデル案を提案した。 
新型のモデルはダグラスDC−3SまたはスーパーDC−3と呼ばれ、より出力の大きな1475馬力のエンジ
ン・ライトR−1820サイクロン、または2000馬力のプラットエンドホイットニーR−2000を装備し、
大きなエンジンナセルとジェット効果のある排気管を装備し、1mほど延長された胴体は30名の旅客が乗れ、
より大きな水平尾翼と後方への重心移動に対応するために、後縁により大きな後退角をもつ外翼を持ち、空気抵
抗の減少を図った機体は最大速度250mphを可能にした。
1946年6月に初飛行した機体は新民間航空規定に合致し、目覚ましい性能の向上が見られたが、小さな航空
会社には高価すぎ、民間からの引き合いは少なかったが、海軍はR4D−8としてスーパーDC−3を100機
購入し、それらはC−117Dと命名された。
大戦中にC−47は多くの連合軍の前線、たとえばグァダルキャナール(ガダルカナル)、ニューギニア、ブルマ
等では兵士の輸送に活躍し、バルジの戦いで有名なバストーニュでは物資の降下輸送作戦に大活躍した。
しかしながらダグラスC−47の活躍で特筆すべきは、インドから中国、昆明へのへのヒマラヤ山脈越え輸送
「ハンプ作戦」だろう。
この作戦ではC−47を多数含む700機以上の輸送機が険しい山岳地帯で失われたといわれ、山々に散らばる
残骸を見たパイロット達からは「ジュラルミンの墓場」と呼ばれたと言われている。
しかしながら、この作戦で得られた経験は、のちに東西冷戦におけるベルリン封鎖時の「ベルリン・エアリフト」
に生かされ、その後により大きく高性能のC−54で代替えされるまでC−47の使用は継続された。
ヨーロッパではC−47をパラシュート降下兵用に改修したC−53スカイトルーパーが、戦争の後半にグライダー
曳航と降下作戦に広く使用され、太平洋方面では、太平洋で戦った兵士たちの本国への帰還にも使用された。
C−47のイギリス、およびイギリス共栄圏での名前はダコタと呼ばれ、この名称は Douglas Aircraft Company 
Transport Aircraft の頭文字を取った「DACoTA」からきている。
ダグラスC−47は同じくヨーロッパでの作戦では「グーニィ・バード:あほうどり」と呼ばれていた。
ダグラスDC−3、C−47は日本など多くの国でライセンス生産され、総生産数は優に10.000機を超える。
連合軍総司令官のアイゼンハウァーは、第二次大戦で連合軍に最も貢献した4つの兵器は、ジープ、バズーカ砲、
原子爆弾、そしてC−47であったと称賛している。
資料写真はイギリス、ダックスフォードのインペリアル・ウオー・ミュージアム展示機。
    諸元一般
      乗員    3名、兵士  28名
      全長    19.43m
      全幅    29.41m
      最大離陸重量     14.061トン
      エンジン   プラットエンドホイットニー R1800
             ツインワスプ   星型14気筒    1200馬力
      性能     最大速度      360Km
             巡航速度      257Km
             航続距離     2.575Km
             上昇限度     8.045m

      
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